チカラ 第4話



  世間はゴールデンウィーク真っ只中。奈穂も連休に心躍っていた。
 よくよく考えてみれば1ヶ月くらい前も春休みで休みだったはずだが、やはり連休という響きは気分が盛り上がる。
 今日は5月3日。祐介と話をするという約束の日だ。
 奈穂は連休中も朝7時には起きるようにしていた。連休だからといって怠け癖をつけてしまうと、休み明けに自分が辛くなるのが分かっているからだ。それに朝早く起きた方が1日が長く感じられて得な気がする。
 起きてから朝ご飯を食べ、出かけるための準備をする。といっても祐介と会うだけだから、そんなに時間がかかるわけではない。
 普段から部活等で運動する機会の多い奈穂は、化粧というものをした事がほとんど無い。
 クラスメイトには休日になると化粧をしている者も多いようだが、奈穂はあまり興味を持っていなかった。
 準備を済ませ、時計をちらっと見る。時刻はまだ9時だった。奈穂の家から祐介の家までは約1時間。今出発したら到着は10時頃になってしまう。
 祐介が住んでいるお祖母ちゃんの家は学校の近くで、通い慣れてる道なので大体の時間は読める。
 家で時間を潰してから行こうとも思ったが、とりあえず行ってみることにした。
 今は携帯電話があるため、外にいても気軽に連絡が出来る。連絡をしてみて、場合によっては適当に時間を潰せばいい。普段から移動の電車の中で読むように本を持ち歩いているので、それを読んでいればいいだけの話だ。
 家を出ると完全に春の物となった陽射しが暑いくらいだった。少し前までは肌寒い日もあったというのに、時が経つのはあっという間だ。このまま気付いたら夏になっていて、寒くなるのを待つだけになるのだろう。
 春は一番好きな季節だ。春のうららかな陽射しを全身で受け止めるのは気分が良い。歩いていても自然と足取りが軽くなる。
 駅に到着すると電車に乗り込む。普段は通勤・通学の人で溢れかえっている電車だが、今日はゴールデンウィークということもあり、家族連れや、カップル、友人同士のグループ等でにぎわっている。
 奈穂は自らが1人であることにちょっとした疎外感を覚えたが、そんな事を気にしている余裕はないと、振り払った。
 祐介にどうやって話をするかを考えなくてはいけない。祐介は馬鹿じゃないから有る程度感づいてはいるだろうが、自分がどこまで話しても大丈夫かを考えていた。
 結局は宏輝とあかり問題だから、友人とはいえ第三者である私があまり踏み込みすぎるのは良くない。奈穂はそう思っていた。出来る限りのことはしたいけど、当人達がどう思っているのかが分からないのだ。
 とりあえず、最低限のことだけ話そう。それで、後は祐介の反応次第だ。やってみないことには、どれだけ考えても仕方がない。
 奈穂が結論にたどり着いたとき、丁度電車は見慣れた駅に到着した。
 水鳥学園前駅。水鳥学園は駅の名前になるくらい、伝統のある学校なのだ。小学校から大学まで全て同じ場所に揃っていて、いわば学園都市のようになっている。
 奈穂は中学校からの入学なのだが、小学校から入学した生徒達の事が好きになれなかった。その筆頭が高田慶広だ。
 何だか妙なプライドみたいな物を持っている気がする。奈穂も陸上に対しては有る程度の自信を持っていたが、それとは全く種類の違う物に思えた。
「自分たちは特別なんだ」そう言いたいかのように見える。奈穂は下らないプライドなんてものは、人間関係を乱すだけだと考えていた。

 3年間通い続けたことで、最早目をつぶっていてもどこに何があるか分かるような駅をいつもと違う方向に歩く。
 祐介の家までは駅から歩いて10分程度だ。走れば5分かからない程で、毎日1時間かけて学校に通っている奈穂にとっては、羨ましい場所だ。
 しかし、上には上が居て学園には毎日2時間近くかけて通ってくる者もいる。そういう人間にとっては憎らしくなるほどの環境だろう。
 そんな環境にありながら、いつも遅刻ぎりぎりで学校に現れるのが信じられない。
 とりあえず連絡しておかなきゃ。通行の邪魔にならないように壁際により、バッグから携帯電話を取りだし、祐介にかけてみる。
 プルルルル。と5、6回なったところで、「もしもし……」眠そうな祐介の声が聞こえてきた。
 「祐介?もしかしてまだ寝てたの?」
「ああ……だいたい今何時だ?」まだ半分寝ぼけているようだ。腕時計に目をやると、時刻は家を出るときの計算通りに10時ちょっと前だ。
「もうすぐ10時ってとこね」
「なんだ、まだそんな時間か。てっきり寝過ごしちまったかと思ったぜ」
「何時まで寝てるつもりだったのよ?」
「そりゃ10時半……いや、40分だな」そういう声はどこか誇らしげにも聞こえてくる。ここまで堂々とされると責める気にもなれない。
「あんたね…11時の約束で20分前まで寝てたら流石にまずいでしょ」
「うっせ。ぎりぎりまで寝るのが俺のポリシーなんだよ」
 奈穂は祐介がいつも遅刻ぎりぎりの理由が分かった気がした。なんだか呆れを通り越して、凄いと思えくる。といっても、全く尊敬は出来ないのだが。
「それで、何さ?もしかしてモーニングコールしてくれたとか?」
「違うわよ。もう、学園前まで来ちゃってるんだけど」
「え。まだ11時まで1時間あると思うのは……俺の気のせいか?」
「気のせいじゃないと思うよ?」
「だったら何故そんな抜き打ちテストみたいな……」
「11時って言うのが思ったより遅くて、用意できたからとりあえず行っちゃえ!みたいな。テストとかそんなんじゃないわよ」
「で、もうそっち行っちゃって大丈夫?」反論する暇を与えずに問いかける。
「学園前ってことは、10分くらいで着くって事だから……」小さい声で何だか計算している。「おう!大丈夫だ!」
「なんかごめんねー。無理させたみたいで」少しかわいそうな事をしたかなと思い、一応謝っておくことにした。
「いや、どうせ20分前まで寝てる予定だったし、ちょっと急げば楽勝ってもんよ」
「なんなら走って行ってもいいんだけど?」
「それは流石に……奈穂ちゃん早いからなぁ」
「嘘よ嘘。冗談に決まってるじゃない」そう言って笑ってみせる。電話の向こうで「冗談きついぜ」と祐介も笑っていた。
「それじゃ、出来る限りゆっくり歩いて行くよ」
「ほいほい。じゃ、また後で」祐介のその一言で電話が切れた。
 やっぱり祐介と話すのは何だか楽だな。そんな風に思った。奈穂が祐介のことを信頼しているからそう思えるのかもしれない。
 奈穂は高田よりも全然人間としての魅力に溢れていると思っている。祐介は高田ほどでは無いにしても女子から結構人気があるらしいが、これには納得いく。しかし、当の本人はそんなのどこ吹く風で全く興味が無いというように見える。
 そういう所も奈穂の中で評価を上げている理由の一つだろう。男子と女子で態度が違ったり、気に入っている女子と気に入らない女子で態度を使い分ける男子より人間として出来ていると思う。
 そんな祐介だからこそ、こういう時に頼りたくなるのかもしれない。奈穂は早足にならないように気をつけながら、祐介の家へと歩き出した。




  そういえばもう5月になっていたな。部屋にかかったカレンダーがまだ4月のページになっているのに気付いた宏輝は思った。
 この前4月になったと思ったら、もう5月だ。学校に行かなくなってからは一日が過ぎるのが早い気がする。
 カレンダーに近づき1ページめくる。そういえば今はゴールデンウィークなんだな。
 去年までは連休といえば嬉しかったが、今年はその前から休みのような物だったので、全然意識していなかった。むしろどこに行こうとしても人がたくさんいるので疎ましいくらいだ。
 4月は結局ほとんど学校へ行かなかった。やはり母は気にしているようだが、直接宏輝に何かを言ってきたりはしなかった。
 それは宏輝にとって幸運なことではあったが、少し寂しくもあった。放っておいてもらえるのは楽には楽なのだが、見捨てられてしまったようにも感じられてくる。
 これから先、僕はどうするんだろう。そんな疑問が宏輝の心の中に湧き上がってきた。
 もう5月だ。この調子で学校に行かなければ、留年、そして退学といった結果が待っているだろう。そうなってしまえば中卒ということになり、現代社会においてはなかなか厳しい状況だ。
 それでもいいかもしれない。と宏輝は思った。
 頑張って生きても、適当に生きても最後に待っているのは平等な"死"なのだ。死から逃げることは出来ない。どんなに努力したところで死んでしまえば、無意味になるんだ。それならば適当に生きていった方が得だろう。
 宏輝は今の世の中で頑張って生きる気にはなれなかった。世の中で生きて行くには無数の人間と関わらなきゃいけないのだ。出来るだけ人間とは関わりたく無い。宏輝はそう思っている。
 色々な人間と関われば、それだけ面倒なことが増えるだけだ。人間なんて自分勝手な生き物なのだ。
 宏輝は人間は自分勝手に生きるべきではないと考えている。人間は地球上の生物の中でも高い知能を与えられた生き物なのだから、他の動物と同じように自分たちのことだけを考えて生きればいい訳ではないと思う。
 宏輝は自分勝手な人間が嫌いなのだ。自分の欲望の為なら、他人を傷つけてもいいと思っているような人間は大嫌いだ。人間に一番大事なものは理性なんだ。
 だけど自分にはそんなことを言う権利は無いとも思っていた。宏輝自身も自分を守るために他人を、しかも大切な友人であったあかりを傷つけたと思っているからだ。
 それ以降、宏輝は自分の考えに自信が持てなくなっていた。自分の言っていることがただの綺麗事に思えてきたのだ。
 なんだか考えることが嫌になってくる。考えれば考えるだけ悪い方向に物を考えてしまう。
 宏輝は全てを振り払うように頭を大きく振り、ベッドに体を投げ出し、枕元においてあった小説を手に取り読み始めた。




  奈穂は祐介の家の前に到着すると、祐介に電話をかけた。玄関の呼び鈴を鳴らしても良かったのだが、祐介のおばあちゃんに無駄な動きをさせてしまったら悪いな。と考えたからだ。
 先ほどとは違い、祐介はすぐ電話にでた。
「家の前まで来たよ」
「ほいほい。今行く」それだけのやりとりで電話が切れた。
 電話が切れてから20秒程で玄関の扉が開き、祐介の姿が現れた。ほとんど10分前まで寝てたとは思えないほど、いつもと変わらない祐介だ。
 祐介と簡単な挨拶を交わし、家へと招き入れられる。祐介の家に来るのは久しぶりだ。奈穂と祐介は話は結構するが、休日に一緒に遊んだりする間柄ではない。二人とも部活等で忙しいのも原因ではある。
「あら、お友達かい?」
 祐介の部屋へと向かう2人に、祐介の祖母が声をかけた。初めて会ったときと全く変わらない
「お邪魔してます」と奈穂は頭を下げる。
「確か奈穂ちゃんだったね?久しぶりだねぇ」奈穂の方を見ながら、祐介の祖母が言った。
「覚えててくれたんですか?」奈穂は祐介の祖母が数回しか会ったことの無い自分を覚えていたことに驚き、尋ねた。
「祐介が女の子を連れてくることは滅多にないから、忘れないよ」そう言って優しげな微笑みを浮かべる。奈穂は祐介の祖母の微笑みも好きだった。凄く優しくて、孫の祐介のことを本当にかわいがっているのが何となく伝わってくる。
「挨拶はもうそろそろいいだろ?」黙ってやりとりを眺めていた祐介が口を開いた。おそらく照れ隠しという面もあるだろう。
「邪魔しちゃったみたいだねぇ。ばあちゃんは下にいるから何かあったら言うんだよ」と言って、祐介の祖母は居間に戻っていった。
 奈穂はその後ろ姿にぺこりと頭を下げ、祐介に連れられて祐介の部屋へと移動した。

 祐介の部屋は高校生には珍しく和室だ。日本人は畳が落ち着くんだよ。と以前祐介が言っていたのを覚えている。
「ちょっとあの言い方はひどいんじゃないの?」勧められた座椅子に座った奈穂が、祐介に言った。
「いいんだよ。奈穂ちゃんだって、うちのばあちゃんと話にきた訳じゃないんだろ?」
「まぁ、そうだけど。でもちょっと意外だったなぁ」
「ん?何が意外なんだ?」
「いや……てっきり女の子ばっかり家に連れてきてるのかと……」冗談っぽく言う。祐介は雰囲気は結構遊んでそうなのだが、実際はそういう人間では無いのは奈穂もよく知っているつもりだった。
「ばーか。俺はそんなことしねーよ」祐介が奈穂の冗談を軽く受け流し、そこから改め直して言う。「で、話ってなんなんだ?宏輝のことって言ってたから、今まで俺も結構気になってたんだ」祐介の声色は真剣だ。
「うーん、何て言ったらいいんだろ。ただの私の勘違いかもしれないんだけど……」奈穂はここに来て本当に話して良いのか不安になってきた。
「奈穂ちゃんがそう感じたのなら、何かがあるってことだと思うぜ。とりあえず話してみてくれ。俺が役に立てるかは分からないがな」
「祐介さ、あかりのことは知ってるでしょ?」祐介の言葉に促され、奈穂が口を開く。ここまで来てしまったんだ、今更不安になっていても仕方ない。
「おう。奈穂ちゃんといつも一緒に居るあかりちゃんでいいんだよな?」
「うんうん。祐介が転入してきたのは2年の時だから知らないと思うんだけど、前ね、あかりと宏輝ってものすごく仲が良かったのよ。何でも幼稚園の時からの幼馴染ってことらしくて、私が宏輝と仲良くなったのもあかりを通じてなのよね」
 祐介はたまに「ほぉ…」と呟きながらうなずいていた。奈穂の話を真剣に聞いているのだろう。
「でも、ある時から二人が突然おかしくなったの。それが中1の時だったんだけど、私にはその時くらいから宏輝がちょっと変わったと思うんだよね。私にはあかりのことを妙に避けているように見える」 「ふむ……。俺も妙だなとは思っていたんだ。宏輝の奴、昔の話をしたがらないんだ。あいつの口から小学生の時の話とかを聞いたこと1度もないぜ。それに、実は俺聞いてみたことがあるんだ。あかりちゃんと幼馴染なんだって?って」
「え?なんであんたがそのことを知ってるのよ?」祐介がその事実を知っていたことに奈穂は驚いた。祐介が転入してきた時に、2人の仲は既に壊れてしまっていたはずで、祐介がしっている訳がないのだ。
「ちょっと風の噂で聞いたんだ。それで、俺にはそういう風に見えなかったから聞いてしまったってわけよ。奈穂ちゃんの話を聞いた今思えば悪いことしちまったかな。んで、その時さ、なんか妙に慌てた態度だったんだよ」
「やっぱり……。絶対2人の間に何かがあったっていうことなんだと私は思う」祐介の話を聞いて、奈穂は自分のたてた仮説は正しいという確信を持ち始めていた。
「そのことに関しては大体分かった。でも、宏輝とあかりちゃんの問題だったら俺たちが首を突っ込むのはまずいんじゃないか?」
 祐介が言ったその言葉は、正論だろう。正直奈穂自身もどこまで首を突っ込んで良いのか分かりかねていた。だけど、普通に考えたらあの二人の仲が壊れてしまうこともあり得ないと思っている。だから、せめて何があったのか知りたかった。
「でもね、私の勝手な考えだけど、あかりと宏輝の仲はそんな簡単に壊れる物じゃないと思うの。だから、何が起こったのか知りたい。それが分かれば、もしかしたら宏輝が学校に顔を出さなくなった理由も分かるかもしれない」
「奈穂ちゃんがそこまで言うなら、調べてみる価値はありそうだな。俺は二人がどのくらい仲が良かったか知らないが、宏輝には戻ってきて欲しいからな」
「ありがと。私も当たれるところは当たってみるからさ」
 祐介が協力してくれると決まれば、百人力だ。祐介の特殊な人間関係なら、何か特別な情報を入手できるかもしれない。奈穂はそんな期待を抱いていた。そして、どうせならもう 1つの気になることも祐介に話してみることにした。
「もう1個、気になることがあるんだけど、ついでに話しちゃっていい?」
「全然構わないぜ」祐介は嫌な顔ひとつせずに言った。
「高田慶広って確か、祐介と同じクラスだったよね?」
「高田慶広……確かに同じクラスだな。まぁ、あんな奴と一緒になっても得することなんて何も無いが」祐介が吐き捨てるように言った。祐介は悪い印象を持っている人間には冷たくなるところがある。「で、高田がどうしたんだ?」
「これも私の気のせいだったらいいんだけど、多分高田の奴、あかりに何かの感情を持ってると思うんだよね。なんかいやな予感がするのよ。あかりが何かめんどくさいことに巻き込まれるような気がする」
「ほぉ。高田慶広か……気は向かないが、そっちも調べてみる」
「ごめんね、なんか頼んでばっかで。高田のことも、私も出来るだけ当たってみるからさ」奈穂は言いながら、軽く頭を下げた。
「奈穂ちゃんは全然気にすることないぞ。俺は嫌だったら断ってるからな」祐介はそう言って笑い飛ばしてみせる。だけど、多分これは本心だろう。祐介は自分が興味を持たないことは絶対にやらないことは、奈穂も分かっていた。
 しばらくの間、2人は今後の事について話し合い、お互い出来るだけ調べてみて、何か分かったことがあったらすぐに連絡をするということにした。
 これで大きく一歩前進だな。奈穂は思った。そして、一刻も早く全てが解決することを、心の中で願った。




  宏輝が小説を読み進めていると、ガチャッと大きな音を立て部屋のドアが開いた。そこには姉の美沙希が手を後ろで組んで立っていた。
「宏輝ー、私お腹すいたんだけど、お昼ご飯どうする?」
 もうそんな時間かと思い、枕元に置かれた目覚まし時計を見る。長針と短針が仲良く天井を差している。丁度12時ということだ。今が昼ということに気付いたら、突然宏輝のお腹も減った気がした。人間なんてそんなものなのかもしれない。
「ご飯って……なんで僕に聞くのさ?」
「なんでって、お母さんがお友達と旅行行っちゃったんだから、私と宏輝で何か食べなきゃいけないじゃん」
 言われてみれば旅行に行くとか言っていた気もする。すっかり忘れていた。興味のないことは中々頭に入らないものだ。
「そういえばそうだったっけ。姉ちゃんがご飯作るの?」
「えー。めんどくさい」あっけらかんとした様子で美沙希が言う。「それに私が作ったら味は保証できないよ?」
 確かに宏輝は姉が料理をしていることをほとんど見たことがない。家事全般が得意な母から生まれたとは思えないほど、姉が家事をしている姿を思い浮かべられかった。
「だから、この中から選んでください!」美沙希はそう言いながら、後ろ手に隠し持っていた店屋物のメニューを宏輝に差し出す。
 最近は宅配をしてくれる店の種類も多く、渡されたメニューはピザ、中華料理、弁当、寿司、ファーストフード等多岐にわたっていた。選択肢が有りすぎて宏輝にはどれを選んで良いのか分からなかった。
 宏輝は自分で決めるというのが苦手だ。自我を通すことによって人に迷惑をかけてしまう事を恐れてしまい、決断できないのだ。
「姉ちゃんはどこがいいの?」宏輝は姉に全権をゆだねることにした。
「んー。ピザとか美味しそうだよね。最近食べてないし」少し迷った素振りを見せてから、美沙希が言った。「でも、宏輝が食べたいものとかあったらそこでいいからね」
「それじゃピザにしようか。姉ちゃん適当に頼んじゃっていいからさ」
「あいよ。着たら声かけるね」美沙希はそう言って、1階へと降りていった。
 一人残された宏輝は、ぼーっと時計を眺めていた。今、長針と短針はちょうど同じ方向を見ているが、30分後は正反対の方向を向いているはずだ。
 またそこから35分くらい経てば同じ方向を見る。近づいたり離れたり、なんだか切ないと宏輝は思った。でも、1度離れてしまっても、時間が経てば絶対にまた近づけるのは羨ましいとも思った。そしてただの時計を見てそんな感情を抱いた自分自身に驚き、なんだか可笑しくなった。
 宏輝はそれ以上余計なことを考えたくなくて、手に持ったままの小説に再び目を落とした。

「ピザ来たよー」
 美沙希が下の階から呼んでいる声が聞こえたので、宏輝は小説を読むのを中断し、1階へと向かった。部屋に入ると、ピザが2つ机の上に並んでいる。
「こんなに頼んだの……?」
「だって美味しそうだったんだもん。ほら宏輝は育ち盛りなんだからどんどん食べなきゃ駄目なのよ」
「いくら何でも2人でこの量は無理でしょ」
「うるさいわね。残ったら後でレンジでチンして食べればいい話じゃない。お腹減ったからとりあえず食べようよー」
 宏輝は姉の言うことに全面的に同意していた。宏輝もかなりの空腹感を覚えていたのだ。
「いただきます」2人でそう言って、食べ始めた。
 ピザ自体は2つなのだが、1つの丸いピザが半分ずつ2種類のピザになっていたので、計4種類のピザがあった。そのおかげで量は少し多かったが、飽きずに美味しく食べることが出来た。
「あ、そうだ」美沙希が口にピザが入ったまま、突然思い出したように声を出した。口の中に入ってる物を飲み込んでから続ける。「そういえば、あかりちゃんが宏輝のこと心配してたわよ?」
 宏輝は突然姉の口からあかりの名前が出たことに驚き、むせてしまった。突然むせかえった弟を見て、美沙希は驚いていた。
 宏輝は何とか落ち着きを取り戻し、言う。
「早坂が僕の心配を……?」
「早坂……そういえばあかりちゃんの苗字は早坂だったっけ。分かりにくいなぁ。前みたいに名前で呼んでくれればいいのに」美沙希はそこまで言うと、コップに注いだお茶を一口飲んだ。
「何かあったのか、心配してるみたいだよ。一応私の口からは、元気そうに見えるとは言っておいたけど、宏輝が直接声をかけてあげた方がいいんじゃない?」
 宏輝はどうしていいのか分からなくなっていた。宏輝の中では、自分はもうあかりに話しかけてはいけないと思っていたし、話しかけるのが怖かった。
 もしあかりに話しかけて、嫌われてしまったという現実を突きつけられてしまえば、それを受け止めることは出来ない気がしていた。宏輝には今まで逃げることしか出来なかったのだ。それが一番正しいと思いこんでいた。
 あかりの事を思い出すと、どうしても一緒に1つの嫌な顔を思い出すのだ。多分宏輝が高田慶広のことを忘れることは、一生ないだろう。宏輝の人生を大きく狂わせた存在なのだ。
 もしかしたら宏輝は、あかりと話すのが怖いというより、高田慶広の存在に怯えているのかもしれない。
 なんだか考え込んでいる宏輝を、美沙希が不思議そうな目つきで眺めていた。宏輝はとりあえずその場を取り繕おうと思い、口を開く。
「まぁ、気が向いたら連絡してみるよ。じゃ、僕そろそろ部屋に戻るね」そう言って席を立つ。
「宏輝。余計なお世話かもしれないけど、あかりちゃんは凄い良い子だと私は思うよ」部屋を出ようとしている宏輝の後ろ姿に、美沙希が言った。
「それは、僕だってよく知っているさ」振り返って姉に向かって吐き捨てた。そんなことは分かってる。分かってるから、こんなに辛いんだ。
「そっか。分かってるならいいのよ」そう言って笑ってみせる。姉も姉なりに色々心配してくれて居るんだろう。その事実は少し嬉しかった。
 自分の部屋に戻った宏輝は、なんだかやり場の無い怒りを抑えられなかった。大抵の場合宏輝のやり場の無い怒りの矛先は自分に向かう。他人を責めるより、自分を責める方が楽だからだ。
 高田慶広は勿論許せなかったが、それに負けてしまった自分はそれ以上に許せなかった。
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