チカラ 第3話



  今日も夢を見た。今までに何度も見た夢。見る度に辛くなる夢。見るのはもう何度目だろう。
 まだ若干の眠さが残る眼をこすりながら、宏輝は自らが見た夢を思い出していた。
 舞台は見るときによって微妙に違う。共通しているのは宏輝の過去ということだ。
 幼稚園児の時や、たまに中学生の時もあるが、小学生の頃が一番多い。宏輝が「楽しかった」と思える時代だ。
 今は生きている意味すら分からないでいる。
 こんな世界で生き続けても無意味なんじゃないか。ちょっと気を抜くとそんな考えにとりつかれている。
 だから、楽しい頃の夢を見るのは辛い。どうしても、最近のつまらない日々と比べてしまう。
 "楽しい"という感情を忘れていれば、今の生活に満足できるはずだ。下手に知ってしまったからこそ、今が辛くなるのだ。
 出来るものなら忘れてしまいたい。だけど、神様が「そうはさせない」と言うかのように夢で思い出させてくれる。神様はどれだけ意地悪なんだろう。
 忘れたいと思うことは忘れられないし、考えたくないと思うことばっかり考えさせられる。
 どうやら僕はよっぽど神様にまで嫌われているらしい。宏輝はそんな事を考えて自嘲的に笑った。
 静かな部屋に宏輝の笑い声だけが響く。昔は見るわけでも無くつけていたテレビだが、最近は全くつけなくなった。
 この箱は人間の汚い部分しか映さない。そう思えてきたのだ。出来るだけ、目をそむけていたかった。
 見れば見るほど、人間という生き物を嫌いになっていく気がする。これ以上嫌いになってしまいたくはない。
 だから最近はほとんど電源すら入れなくなっている。もはや家電では無く、ただのインテリアだ。
 ずっと静かなままだと、得体の知れない寂しさに襲われる時がある。
 そういう時にちょっと付けてみたりするときは有るのだが、大抵の場合はすぐ消してしまう。
 そしてそういう時は好きな音楽を流しながら、本を読んだり、パソコンをいじったりしている。
 昔は今みたいに一人で居る時間は少なかった。いつも隣に幼馴染の早坂あかりがいた。
 宏輝とあかりが知り合ったのは、もう10年以上前の幼稚園児の頃だ。
 今でも覚えている。クラスに馴染めずに部屋の隅っこで絵を描いていた宏輝にあかりが声をかけたのがきっかけだった。
「なにをかいてるの?」
 幼かった宏輝は突然声をかけられて、どうしていいのか分からなかった。
「あ、わんちゃんだ。わたしね、わんちゃんだいすきなんだぁ!」宏輝の描いた絵を覗き込んで、幼いあかりが言った。
 宏輝は嬉しいような、恥ずかしいような複雑な気持ちだった。何か言わなきゃと思ったのだが、何を言って良いか分からずに黙り込んでしまう。
「あなたは、おなまえなんていうの?」何も喋らない宏輝に対し、ちょっぴり不思議そうにしながらもあかりが問いかけた。
「ひろき。……かじもと、ひろき」消え入りそうな声で自己紹介をする。
「ひろき君っていうんだ!わたしはあかり。はやさかあかり。よろしくね!」そう言って屈託のない笑顔を浮かべた。
 宏輝は幼心にその笑顔に心を奪われかけた。そして、自然と笑みがこぼれていた。
「うん。よろしく」
 それ以降一緒に居ることが多くなっていて、気がついたら家族ぐるみの付き合いになっていた。
 父親が忙しい宏輝はあかりの父親を自分の父親のようにも思っていたし、一人っ子のあかりは宏輝の姉を自分の姉のように慕っていた。
 一緒に居ると楽しいことは倍になって、辛いことや悲しいことは半分になっていた気がする。
 それが今はどうだ。ここ2年くらいはまともに話していない気がする。戻れる物なら、あの頃に戻りたい。
 だけどもう自分にはそんな資格が無いように思える。
「全部、僕が悪いんだ」思わず声に出ていた。
 忌まわしい記憶。思い出したくもない、忘れてしまいたい記憶が蘇ってくる。
「僕が弱いから、こんなことになったんだ。僕が弱かったから、早坂を傷つけたんだ」




  今日はあっという間に時間が過ぎた気がする。既に6時間目、最後の授業を受けている奈穂は思った。
 教壇では今日も黒川がCDを流すために機材を操作している。
「日本人が喋った英語を聞くより、普段から英語を使っている人の英語を聞いた方が勉強になるんだ」
 黒川はそんなことを言っていたが、奈穂にはその違いが理解できなかった。
 CDで聞くどこかの外国人の英語と、日本人の黒川が喋る英語。どっちも同じに聞こえる。
 奈穂の一番苦手な授業が、この英語なのだ。といっても、クラス全体で見たら真ん中より上には入るのだが。日本語すら完全に使いこなせない内から、英語の勉強をするのはおかしいんじゃないか、と考えていた。
 今日は全体的に授業を受けることに身が入らなかった。
 授業に集中しようとしても、頭の中であかりと宏輝の影がちらつくのだ。
 奈穂に出来ることは何かないのか。そんなことばかり考えてしまう。
 だけど、どんなことを考えても、あかりや宏輝と話をしないことには、前には進めない気がする。
 何とかしたいと思っても、奈穂の知っている情報は少なすぎるのだ。
 ちょっとずつ、探りを入れてみようか。丁度一つの結論にたどり着いたとき、終業を知らせるチャイムがなった。
「起立、礼」日直の祐介の合図で形式的な挨拶が行われ、黒川は教室から出て行く。
 窓の外に目をやると、今日は昨日とは打って変わって青空が広がっている。
 今日は部活がありそうだ。昨日走れなかった分、今日は存分に身体を動かそう。
 いつものように一緒に部活へ行こうと思い、あかりの席へと向かう。このクラスで陸上部に所属している女子は、奈穂とあかりの2人だけだ。
 水鳥学園は部活動に所属しなくてもいいので、帰宅部の生徒も多い。
「今日は部活出来そうだね。昨日の分も頑張らなきゃ!」あかりの肩をたたきながら、奈穂が言った。
「そうだね。昨日はたくさん遊んだし、今日は部活頑張ろう」あかりがいつもの笑顔を浮かべながら答える。
「昨日はねぇ……遊びすぎってくらい遊んだよね。おかげで財布が大ピンチだー」
「あ、やっぱり奈穂も?私もちょっと調子乗りすぎたかな。って思ってたんだよ」
「ま、昨日のことを今更考えても仕方ないし、楽しかったからよしとしますか」
「あはは。それもそうだね」
 会話をしながら、奈穂はあかりの様子を観察していた。今は変わったところや、悩んでいるような素振りは見えない。
 奈穂の知っているあかりそのままと言った感じだ。
 ガラッと大きな音を立てて扉が開く音がすると、「早坂さーん」クラスの生徒ではない男子生徒があかりを呼ぶ声が聞こえてきた。
「あ、ちょっと行ってくるね」その声を聞いたあかりは、声の主の元へ向かっていく。
 あかりの事を呼びよせたのは、高田慶広という生徒だった。将来の生徒会長確実と言われ、学校の中で知らない人はいないという程の有名人だ。
 成績優秀で、運動神経やルックスも良く、さらに実家はお金持ちと、多くの女子生徒の注目を浴びている存在でもある。
 奈穂はこの高田慶広に良い印象を抱いては居なかった。自分に自信があるのか、妙にプライドが高い印象がある。
 他人を配慮する心が足りないように思えるのだ。それでは、いくらルックスが良くても、勉強や運動が出来ても意味はない。奈穂はそう考えていた。
 人間にとって一番大事なのは、他人を思いやれる心なのだ。
 あかりが数枚のプリントを持って、戻ってきた。あかりと高田が知り合いだというのは知らなかった。
「高田と知り合いだったんだ?」
「うん。委員会の方でちょっとね。すっごい良くしてくれるんだよ」
 あかりの言葉を聞いたとき、凄く嫌な予感がした。奈穂が高田に好印象を持っていないからかもしれないが、何か面倒なことに巻き込まれるような気がした。
 高田のことになると、周りが見えなくなるような高田ファンの女子生徒も何人か居るのだ。
 そんな下らないことに、あかりが巻き込まれてほしくない。この心配が無駄な心配で終わればいいけど……。
「奈穂?急に考え込んでどうしたの?」
「なんでもないよ。ちょっとびっくりしちゃってさ、あの有名人とあかりが知り合いだったなんて知らなかったから」
「私も最初は話すときはちょっと緊張したけど、話をしてみると結構普通な感じなんだよ」
「そうなんだ」奈穂の印象は勘違いなのだろうか。
 自分の思ったことをあかりに話してみようかとも思ったのだが、根拠も無く人の中傷はするべきではない。と思い、胸にしまっておくことにした。
 腕時計に目をやると、部活のために少し急がなければいけない時間を指し示していた。
「あかり!ちょっと急がないと時間やばくない?」
「あ、ほんとだ。急いで部室に行かなきゃね」
 2人は早歩き気味に教室を後にして、陸上部の部室へと向かった。




  気がつけば夕方になっていた。窓の外に広がる空は紅く染まっている。
 家にいると何だか時間が過ぎていくのが早く感じる。学校に行っていたときの半分くらいのスピードで時が流れているのでは無いかと錯覚してしまう程だ。
 宏輝は今日はもう暗くなるだけの空を見つめながらそう思った。
 このくらいの時間帯は好きだ。昼が夜に変わっていく時間。光が徐々に闇へと変わっていく時間。
 夜の闇は心の闇も覆い隠してくれる気がする。良いことも、悪いことも、全てを映し出してしまう光より全然いい。
 宏輝は夏が嫌いだ。昼が長いし、無駄に暑い。これから暑くなっていくだけということを考えると憂鬱な気分になる。
 窓の外から室内に視線を移した時、携帯電話が鳴り出した。誰からだろ?と思い、確認してみる。相手は西川奈穂だった。
 一昨日まで着信なんてほとんどなかったのに、昨日は祐介、今日は奈穂と、2日連続で着信があるとは変な感じだ。
「もしもし」どうするべきか迷ったが、とりあえず電話に出てみる。奈穂相手に警戒していても仕方ないだろう。
「あ、宏輝?久しぶりー」奈穂の元気な声が聞こえてくる。昨日の祐介の時と同じように「久しぶり」とだけ返した。
「昨日祐介がそっち行ったでしょ?」奈穂が問いかける。
「うん、プリントはちゃんと受け取ったよ」
「そっか、それなら良かった」
「これ何かファイルに入ってるんだけど、このファイルはどうすればいいの?」誰の物かも分からない物を持ち続けるのも何だか悪い気がしたので、奈穂に聞いてみる。
「ああ。それあかりのファイルだから、持ってても大丈夫なんじゃない?」
 あかりという言葉が奈穂の口から出たとき、どきっとした。今朝あんな夢を見たからだろう。凄く気になっていた。
「何で早坂のファイルが……?」なるべく、心境の変化が現れないように聞く。
 本当は正直にあかりの最近の様子を聞いてしまいたかった。それくらい気になっていた。だけど、自分にはそんな資格が無いし、どう聞いたらいいのかも分からない。
「あの子クラス委員だからね。几帳面なところあるから、まとめてくれたんじゃない?」
「何か悪いことさせちゃったかな……」
「そんなことないと思うよ。あかりが好きでやったことだろうしね。宏輝が気にする必要は無いよ」
 宏輝はあかりの物を自分が持っていることにどこか違和感を感じる。チャンスがあれば返そう。そう思っていた。
 それからも10分くらい会話を続けていた。
 部活の話や、見た映画の話等、宏輝が学校に行っていた頃話した話と大きな違いはなかった。
 奈穂とあかりは仲が良いから当然なのかもしれないが、話にあかりが登場する時があった。そのたびに宏輝はどきっとして、それを悟られないようにしていた。
「あ、私そろそろお風呂入らなきゃ、また連絡するね」
 奈穂のその言葉に対し、宏輝が「うん。またね」と返し、電話が切れる。
 宏輝はちょっと不思議な感覚に陥っていた。奈穂と久々に話したからかもしれないが、今日は凄くあかりの存在が出てくる気がする。
 今朝見た夢に、今の電話。神様は何を考えて居るんだろう。訳が分からない。
 あかりのことを考えても、辛くなるだけなのに。思い出したく無い記憶が蘇るだけなのに。
 あの出来事を思い出す度に、人間を嫌いになる。そして自分はもっと嫌いになる。
 全ての思考を停止させてしまいたい。
 今日も逃げるようにPCの電源を入れる。逃げているだけじゃ駄目だとは思うのだけど、現実と正面から対峙したくなかった。
 いつかは打ち勝たなきゃいけないんだろうけど、今は戦っても負けるだけに思えた。無駄な足掻きならしたくないんだ。




  奈穂は浴槽に肩までつかり、考え事をしていた。
 風呂が一番落ち着いて物を考えられるのだ。余計なことが頭に入ってこない気がする。
 今日は宏輝に電話をして少しは進展したと思う。
 やっぱり、宏輝とあかりの間には何かがあったのだ。あかりが話に出たときの宏輝の態度がちょっとおかしかった気がする。
 前に進むためには、もっと色々なことを知らなくてはいけないだろう。
 でも、これ以上宏輝本人から聞き出すことは出来ないだろうし、傷口に塩を塗るようなことになってしまったら嫌だ。
 とにかく、祐介に話をしてみよう。祐介と2人で考えれば、何か方法が思い浮かぶかもしれない。
 祐介は新聞部という部活に所属していて、奈穂には無い人脈を持っているのだ。
 宏輝の方はそうするしかないだろう。
 奈穂の頭の中にもう一つ気がかりなことがあった。高田の事だ。
 あかりは高田が自分に良くしてくれると言っていた。
 奈穂にはプライドの高そうな高田が、理由もなく人に何かをするようには思えなかった。
 奈穂自体、高田の事を詳しく知っているわけではないから、勝手な言いがかりかもしれないが、凄く不安だった。
 高田派の女子の問題もある。仮に、高田慶広が早坂あかりに気があるということになれば、黙ってはいない人間も出てくるだろう。
 こういう事になると何をしでかすか分からないのが人間の怖いところだ。特に奈穂くらいの年頃の女子はそういうものだ。
 とにかく、高田のことも含めて祐介に相談してみよう。一人で考えていても限界がある。
 幸運なことにもうすぐゴールデンウィークだ。部活が休みの日もあるだろうから、そこで祐介に話をしてみよう。
 とりあえずお風呂から出て、祐介に電話しておこう。予定を明けておいて貰わなければならない。
 少し長く考え事をしすぎたのか、のぼせ気味だからちょうどいい。

 昨日と同じようにパジャマに着替えると、自分の部屋へ直行する。
 まず部活の予定表を確認する。5月3日から5日は3連休となっていた。おそらく顧問の吉岡も休みたいのだろう。
 3日あれば、1日くらい空いているだろう。と思い、祐介に電話をかける。
 昨日と同じように祐介の「もしもし」という声が聞こえてきたのが、少し可笑しかった。
「2日連続でごめんね。ちょっと聞きたいことがあってさ」
「ん?聞きたいこと?」祐介が聞き返す。
「そそ。もうすぐゴールデンウィークじゃん?祐介さ、3日から5日までの間で空いてる日ある?」
「ちょいまって。確認してみる」そう言って電話を机かどこかに置く音が聞こえてきた。
 おそらく祐介も自らの予定を確認しているのだろう。
「えっと……5日以外は空いてるな。でも、なんで俺の予定なんて?」
「ちょっと話をしたいことがあってさ。1日でも早いほうがいいから、3日でいい?」
 少しでも早くこの状況を解決するためには、少しでも早く祐介に話をした方がいいだろう。
「りょーかい。空けておくよ。それで一体話したいことってどんなことなんだ?」
「まぁ、簡単に言えば宏輝のことよ。今日電話してみたんだけど、それでちょっと祐介に話しておきたいことがあってね」
「そういうことね。俺はてっきり愛の告白でもされるのかと思ったぜ」祐介が笑いながら言う。
「馬鹿。なんで私があんたにそんなことしなきゃいけないのよ」
「冗談冗談。んで、3日というのは分かったから、何時からどこで話すんだ?」
 相変わらずふざけた態度と真面目な態度の切り替えが早い奴だ。
「んー。11時にくらいに、祐介の家まで行くよ」
 どこか外に出て話をしようかとも思ったが、祐介の家で話すのが一番安全だろう。外ではどこで誰に聞かれているか分からない。
「ラジャ。3日の11時ね」おそらく手帳か何かにメモしているのだろう。
「じゃ、そういうことで。また何かあったら連絡するね」
「ほいほい。おやすみー」その祐介の一言で電話が切れる。
 これで一歩前進だ。話した結果、何か方法が思い浮かぶか分からないが、何もしないよりはいいだろう。
 出来ることは全部したいと思っているのだ。祐介任せでは無く、自分でも情報を集めてみることにしよう。
 しばらく忙しくなりそうだな。星達が輝く夜空を窓越しに見つめ、奈穂は思った。
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