チカラ 最終話



 5月28日。宏輝はセットした目覚まし時計が騒ぎ出す前に、目が覚めた。時計を見ると、まだ6時にもなっていない。
別に早く寝たわけでは無いのだが、自然と起きていた。睡眠時間の割に、眠気も全くといって良いほど無い。
昨日は一日中自分が自分では無いみたいだった。一昨日の出来事が全て夢のように思えていた。もし夢ならば永遠にさめないで欲しいと思った。
不安になって、何度も頬をつねって見たが、確かに痛かった。痛かったけど、幸せだった。一昨日の事を思い出すと自然と笑みがこぼれる。
僕の人生で一番幸せな一日だったかもしれない。宏輝は何度もそう思った。
皆のチカラを借りたとはいえ、高田慶広に勝ったという事は嬉しかったし、それにあかりと元通りの関係、いや、それ以上の関係になれたというのが最高に嬉しかった。
一度、どん底まで突き落とされたからこそ、これだけ嬉しく感じられるのだろうか。
人間は、一度闇に飲み込まれてみないと、光の本当の美しさ、眩しさに気付かないのかもしれない。そんな事も考えた。
今日は久しぶりに学校へ行くことになっている。7時半にはあかりが家に迎えに来るはずだ。それまでに全ての用意を済ませておきたい。
宏輝はとりあえずシャワーを浴びることにした。昨日の夜もちゃんと風呂に入ったし、眠気もほとんど無いのだが、久しぶりに学校に行くということ。そしてあかりと一緒に学校に行くという事実が、宏輝をそうさせたのだ。
宏輝が風呂場から出てくると、静恵が不思議そうな顔をして現れた。
「ちょっと、こんな朝っぱらから何やってるの?」
不思議に思うのも当然だろう。いつもなら宏輝は完全に夢の世界に居る時間なのだ。
「ただ、学校行くだけだよ」
今まで何事も無かったかのように言った宏輝の声を聞くと、静恵は一瞬何を言っているのか分からないというような表情になった。しかし、すぐに気を取り直して、口を開く。
「そう。それなら朝ご飯と、お弁当作らなきゃね」
色々な感情を抑えたような声だった。
宏輝は今になって母親も母親なりに心配していたのかもしれない、と初めて思えた。今まではそこまで感じとる余裕が無かったのだろうが、心に多少の余裕が出来て、初めて思えたのだ。
母は今までどんな思いで見守ってきたのだろうか。突然今までの自分の考え方がひどく恥ずかしいものに思えてきた。
「今まで、ごめん」
聞き取れたかどうか微妙なくらいの声で、宏輝は言った。何だか面と向かって謝るというのは、恥ずかしかった。
静恵は何も言わずに笑顔を浮かべて、キッチンの方向へ向かっていた。
母の笑顔を見たのは久しぶりの気がする。いや、今までは自分のことにいっぱいいっぱいで、母の顔なんて気にしていなかったのかもしれない。
宏輝はふと父親のことを思い出した。この前は話をしたくなんて無かったから、あの時以降話をしていないが、何だか今は父親と話をしたいと思った。
今なら、余裕を持って父親の言葉を受け入れられるかもしれない、と思ったのだ。学校から帰ってきたら、電話をしてみよう。宏輝は心に誓った。
学校に持って行く鞄の準備は昨日の内にすませた。時間割は前に祐介が届けてくれていたし、分からなかったことはあかりに電話をして聞いた。
会いたいという気持ちも無くはなかったのだが、どんな顔をして会えばいいかも分からなかったし、何となく一日は余韻に浸っていたかったから、昨日は会っていない。
久しぶりに持つ学校の鞄はとても重く感じられた。今日必要な教科書類が全て入っているからだろう。
制服に着替えをする前に、朝食をとることになった。
宏輝と、静恵と、起きてきた美沙希と3人でテーブルを囲む。家族3人で朝食を食べるなんていつ以来だろうか。
朝食を済ますと制服に着替える。久々に袖を通したワイシャツの感触が懐かしいような気もしたし、少し気持ち悪いような気もした。
制服に着替えると、何だか不思議な気持ちになった。4月からたった2ヶ月の間しか離れていなかったはずだが、自分が制服を着ているという事実が、とんでもなくおかしな事に感じられた。
全ての用意が終わると、何だかんだで時刻はもう7時20分になっていた。朝の時間の流れは本当に早く感じられる。
まだ約束の10分前だが、宏輝は家の前であかりを待つことにした。家の呼び鈴を鳴らされて、母親や姉が出てしまったら、何だか恥ずかしい。
あかりと一緒にいることは昔は当たり前だったし、家族もそう思っているかもしれないが、やっぱり気恥ずかしい。宏輝の中で、あかりとの関係が少し変わったからかもしれない。今は、ただの幼馴染ではなくなっているのだ。
宏輝は荷物を全て持ち、玄関でこれまた久々の革靴を履き、「行ってきます」と口に出して言った。
これも何だか懐かしい。最近は家を出るとき、家族に挨拶などしなかった。
母親と姉の「行ってらっしゃい」という声が聞こえてきて、何だか少し背中がくすぐったいような感覚になる。宏輝は扉を開けて、外に一歩踏み出した。

朝の光が想像以上に眩しかった。こんなに眩しいものだっただろうか……
門の外に見覚えのある人影が見えた。その人影は家から出てきたことに気がつくと、宏輝の方に目をやった。早坂あかりだった。
宏輝は思わず目を疑った、まだ約束の時間まで10分はあるはずなのだ。小走りにあかりの元に近づき、「おはよう」と挨拶をすると、あかりも同じように返した。
些細な挨拶が、昔は当たり前だった挨拶が、なんだか凄く貴重な物のように思えた。
「まだ約束の時間まで10分くらいあるよね?」
「うん。だけど何だか目が覚めちゃって。とりあえず来ちゃった」
そう言って、笑ってみせる。宏輝も自然と笑っていた。しばらくそうしていると、玄関のドアが開いて美沙希が姿を現した。
美沙希は二人の姿を見つけると、あかりに挨拶をして、そして宏輝の方を見ながらにやりと笑った。
「へー。そういうことね」
「別に姉ちゃんの思ってるようなことじゃないよ」
「ふーん。別に何とも言ってないのに、そこまで否定するのは怪しいわね」
「それは姉ちゃんが……」
「いいからいいから。とりあえず今は行ってきなさいな」宏輝の言葉を途中で打ち切るように言った。
確かに、今は姉に言い訳をしている場合では無いかもしれない。
宏輝は「行ってくる」と言い残し、その場を歩き出した。それを見て、あかりも早足で並びかける。
「二人共、気をつけるのよー」
姉が二人の背中に向かって言った。あかりは律儀に振り返って返事をしていたが、宏輝は聞こえないふりをした。姉に早速知られてしまったことが何だか恥ずかしかったのだ。
駅まで到着する間、ずっとあかりと話をしていた。一緒に登校する以上当たり前なことなのかもしれないが、宏輝はテンションが上がってしまうのを抑えるのが大変だった。話したいことは沢山あるのだ。
電車は通勤通学の時間だけあって混雑している。これだけ混雑した電車に乗るというのは久しぶりだ。ここ数ヶ月は人の少ない時間を狙って外出していた。
学校の最寄り駅に到着すると、そこで奈穂と合流した。あかりと奈穂はいつもここで待ち合わせをしていたらしい。 奈穂はあかりと宏輝が二人で居るのを見つけると、少し話しかけづらそうにしていたので、こっちから声をかけた。奈穂と祐介には本当に感謝しているのだ。
2人が居なければ、今の状況はありえなかっただろう。
学校に到着する途中も、学校に到着してからも、何人もの生徒が何か言いたげに宏輝の方を見てきたが、宏輝は気にしないように努めた。あかりと奈穂が協力してくれたから難しいことでは無かった。奈穂に話を聞きに来る者もいたが、奈穂は適当にあしらってくれた。
もし一人だったら、視線に耐えられずに逃げ出してしまった気がする。
宏輝は心の中で「ありがとう」と呟いた。改まって言葉にするのは何だか恥ずかしかった。でも、どこかでちゃんとお礼をしないといけないな。と、心に誓った。
そんなこんなで気付いたら授業が始まる5分前になっていた。
宏輝の緊張はかなり高まってきた。久しぶりの授業。正直ついて行ける自信が無い。中間テストまでもう少し時間があるので、何とか追いつかなきゃいけないな。
まだまだ、あかりや奈穂、そして祐介に迷惑をかけるかもしれない。宏輝は小さくため息をついた。迷惑ばかりかけている自分が虚しかったのだ。
「ため息なんてついて、どうしたの?」ため息に気付いたあかりが口を言った。
「いや、勉強ついて行けるか不安になっちゃって」
「大丈夫だよ!ひろくんならすぐ追いつけるって。私も協力するし、それに奈穂先生だっているしね!」奈穂の方をちらりと見る。
「奈穂先生って……大げさだなぁ。でも、時間のある限り付き合うよー。折角戻ってきたのに、来年は学年違うとかなったら話にならないしね」奈穂が冗談交じりに言った。
確かに奈穂の存在は心強かった。奈穂は学年でもトップクラスの成績を誇る秀才なのだ。本人も苦手だという英語以外は、常に学年トップ10に入っているレベルだ。
元々優秀な生徒の多い水鳥学園でそれだけの成績を残しているのは凄いとしか言えなかった。
「俺だって手伝うぜ」
唐突に聞こえてきた声に振り向くと、祐介が立っていた。祐介は全ての荷物を持ったままで、自分のクラスに行く前にここに来たみたいだ。
「相変わらずぎりぎりの登校なんだね」
「おう。これが俺のスタイルだからな!」祐介が胸を張って言った。
「だからそれは威張るところじゃないって」すかさず奈穂のつっこみが入る。
この二人も良いコンビだな。宏輝はそう思って笑っていた。あかりも笑っているようだった。
「とにかくだ、勉強の事とかは心配するな。俺に奈穂ちゃん、あかりちゃんがいるんだ。お前ならどうとでも出来るさ」
祐介の言葉を受けて、奈穂とあかりが頷く。祐介にそう言われると何だか出来るような気がしてくる。本当に頼もしい存在だ。
「何から何まで本当にありがとう」宏輝は思ったままの気持ちを言葉にした。
「気にするな、俺たちがやりたくてやってることだからな」
奈穂とあかりはまた頷いていた。宏輝はなんだか嬉しくて涙が溢れ出そうになったが、学校で泣くわけにはいかないと思い、なんとか堪えた。
「やべ。もう授業始まるな。じゃあ俺行くから!」
祐介はそう言い残すと走って教室から出て行った。祐介が教室から飛び出し、ドアを閉めるのとほぼ同時に、1時間目の始業を知らせるチャイムが鳴り響いた。

それから昼休みまではあっという間だった。
想像通り授業で言っていることは理解できない事が多かったが、とりあえずノートをとっておいた。理解するのは後回しでいい。
教師によっては、今まで学校を休んでいた宏輝にこれまでに配ったプリント等を渡したいからと、休み時間に職員室まで呼び出す者もいた。
前は教師の言葉なんてほとんど聞いていなかったし、呼び出されても面倒だとしか思わなかったのだが、今は違った。早く皆に追いつかなきゃという気持ちで一杯だった。
宏輝としても留年という事態だけは避けたいのだ。
4時間目の英語の授業の後、担任でもある黒川に呼び出され少し話をしたが、これから真面目に学校に来て、テストである程度の成績を残せば進級することは可能ということらしい。
黒川の元から教室に帰ると、祐介、奈穂、あかりに加えて一人の眼鏡をかけた女子生徒が宏輝の事を待っていた。
その女子生徒はあかりや奈穂と親しげに話をしている。宏輝もどこかで見たことがある気はするのだが、誰だかは思い出せない。
「一応紹介しておくね。この子は堀仁美。中学の時宏輝と同じクラスだったんだけど覚えてるかな?」宏輝の心中を察したのか、奈穂が紹介する。
堀仁美……確かにその名前は聞いたことがある。同じクラスだったはずだが、ほとんど印象には残っていない。
「堀仁美です。改めて、よろしくお願いしますね」小さい声だが、かわいらしい声だった。
声をまともに聞くのは初めてな気がする。中学3年間同じクラスだったのだから、どこかで声は聞いたことがあるだろうが、その頃の宏輝は周りが見えていなかった。
祐介の提案で、今日は記念に、これから屋上で弁当を食べるということらしい。
本来屋上への立ち入りは出来ないのだが、祐介が部活で使うという名目で許可を取ってきたのだ。祐介の行動力には心底脱帽させられる。
普段は鍵がかかっている扉を祐介が開け、屋上に出る。吹き抜ける風が心地良い。何故高いところというのはこんなに気分が良いのだろうか。
そしてまたも祐介が用意していたレジャーシートを広げ、地面に座り込む。ちょっとした遠足気分だ。
母親の弁当を食べるのは久しぶりで、何だか懐かしい味だ。ここ数日は懐かしい出来事が多すぎる。
宏輝はちらりと堀仁美の方を見た。堀仁美があかりや奈穂と仲が良いというのは知らなかった。少なくとも宏輝の記憶の中には無い。ここ最近仲良くなったのだろうか。
イメージとは異なり、結構話をしているように見える。もっとも奈穂やあかりが話を振っているのに答えているという感じかもしれない。
宏輝なんだか友人同士で食事をするというのが特別なことに思えていた。
その時ガチャリという音を立てて、扉が開いた。
ここの鍵が開いているということは、ほとんどの人が知らないはずだ。事情を知らない教師がやってきたのだろうか。
開いた扉から現れた人間は予期していない人物だった。
その人物は松野俊。宏輝にとっては忘れることが出来ない、だけど忘れたい人物の一人だった。松野は高田慶広の仲間のはずだ。
松野は何事も無かったかのように近づいてきて、祐介の方を見ながら口を開く。
「こんな所に居たのか。探したぞ」
二人は仲が良かっただろうか。なんだか少し学校に来なかった間に色々変わっているみたいだ。宏輝は自分の変化を気付かれないように気をつけながら、成り行きを見守ることにした。
「ああ。今日は特別だからな。一体俺に何の用だ?」
「別にお前に用がある訳じゃないさ。用があるのはそっちの奴」松野はそう言って宏輝の方を見る。
松野の様子を観察していた宏輝は、突然自分の方を向いた松野と目が合ってしまい、慌てて目線をそらした。
それにしても、僕に用事とは何だろう。高田慶広が関係した何かであるようにしか思えない。自分の鼓動が早まっているのに気付いた。
周囲をそっと見回してみたが、祐介や奈穂は特に気にしていない様子だ。宏輝は意を決して用件を聞いてみることにした。
「用って何?」必要最低限の言葉しか出せなかった。
「一言謝っておきたかったんだ」松野の口から出たのは意外な言葉だった。
一体どういう事だろう。宏輝は突然のことで何が何だか理解できなかった。
「色々下らないことに巻き込んで悪かった。もしこれから先も高田慶広がお前に手を出してくるような事があれば言ってくれ。俺と三澤があいつの好きにはさせないから」
松野は祐介の方を見てにっと笑った。祐介もそれに対して「おう」と返事をした。
宏輝は訳が分からないままだが、何だか心強く感じられた。祐介と松野この2人が味方ならば、この学校には恐れる物は無いようにさえ思えてくる。
「それじゃ。邪魔して悪かったな」松野はそれだけ言い残すと、戻っていった。
その後、祐介と奈穂からこれまでの話を簡単に教えてもらった。聞いた話をまとめると、松野の協力が無くては、こうも全てが上手くいくことはなかったのかもしれないということだ。
結局昼休みが終わるまで、特に何をしていた訳ではない。雲しか無い空を見上げて、何でも無い話をする。ただそれだけなのに、時間がゆっくり流れていくように感じられた。
5時間目が始まる5分前のチャイムが聞こえると、5人は慌てて自らの教室に戻っていった。

午後の授業もあっという間に終わり、放課後がやってくる。久々の学校は時間が経つのは早く感じられたが、その分疲れた気もする。今までの怠慢な生活がいけなかったのだろう。
今日はあかりも奈穂も祐介も部活がある。宏輝はあかりの部活が終わるまで学校で待つことにした。
久々に学校へ来た為に教師に聞いておきたい事もあるし、それにやっぱりあかりと一緒に帰りたかった。今まで話せなかった分、少しでも一緒にいれる時間を大切にしたいと思うのだ。まず職員室へ行って何人かの教師の元を訪れ、今まで休んでいた分を取り戻すためには何をするべきかを聞いて回った。宏輝を見た時にまず驚いた顔をする教師が多かったが、ちゃんと教えてくれた。
まだ全体的に教師のことは好きになれないし、信頼する事はできないが、思っていたより悪いものではないのかもしれないと思えた。これも心の余裕のおかげだろうか。
それから宏輝は図書室に行って、今教えてもらった所を勉強しておくことにした。
奈穂に祐介、あかりが協力してくれるのはありがたいが、迷惑ばかりかける訳にはいかない。今まで楽をした分、ここから取り戻して行かなくてはいけないのだ。
図書室には堀仁美の姿があった。
宏輝が軽く会釈をすると、仁美はにこやかに笑い、自分の隣の席へどうぞと言ったような素振りを見せた。仁美のこんな表情を見るのは初めての気がする。もっとも今まで仁美の表情を気にしたことはほとんど無かったのだが。
そうやって誘ってもらえた以上、断る必要は無いだろう。それに一応知った顔が居るという方が、気持ちも楽だ。
宏輝が仁美の横の席に腰掛ける。仁美は黙々と手にした本を読み続けている。何だか完全に黙ったままというのも、変な気がしたので宏輝は少し声をかけてみることにした。
昼休みのやりとりを見る以上、話しかければ返事はしてくれるのだろう。
「本、好きなんだ?」
宏輝の言葉を聞いた仁美は本から目を離し、宏輝の方を向いて答える。
「はい。本は大好きです。これでも一応小説部員なので……」図書室であるからか、先程聞いた声よりさらに小声になっていた。
「小説部なんてあるんだ?知らなかったな」
「あるにはありますよ。部員は私一人ですが……」
「やっぱり小説を書いたりするんだよね?」
「そうですね。書くのも読むのも活動の内です」
宏輝は小説部というものに興味を持った。今までは読むの専門だったが書いてみるのも面白いのかもしれない。ある程度勉強の方が落ち着いたら、入ってみようかな。宏輝はそんな事を考えた。
部活をやっているあかりと一緒に帰りたいと思うなら、やはり宏輝も何かしらの部活に入るのがいいだろう。
本来はあかりや奈穂と同じ陸上部に入るのが一番なのだろうが、いかんせん運動は好きではない。それに堀仁美は二人の友達みたいだから丁度良いだろう。
「もし、入りたいと思ったら堀さんに声をかければいいのかな?」
「はい。私か顧問の先生に声をかけてくれれば。興味がお有りですか?」
「うん。僕も小説読むの好きなんだよ。今まで書いたことは無いけど、それも面白そうだな、と思って。でも、少し勉強の方が落ち着いてからだけどね」
「そうですか。それなら、いつでもいらして下さいね。私は大歓迎ですので」そう言って仁美は笑顔を浮かべた。
これもまた見たことも無い表情だった。
やっぱり人間は色々な顔を持っているのだろう。全ての人に宏輝の知らない部分がある。自分だって気付かない部分があるかもしれないのだ。
だけど、それを全部含めて、綺麗な部分も、そうでない部分も含めて一人の人間なのかもしれない。
宏輝はそんな事を考えて、あかりの事をもっと知りたいと思った。3年間の空白で変わったことはたくさんあるだろう。誰よりもあかりの事を知っていたいと思った。
それから陸上部の活動が終わるくらいの時間まで、たまに仁美と会話しながら宏輝は図書室で勉強していた。
部活が終了する少し前を見計らい、仁美に別れを告げて教室へと引き返す。
誰もいないガランとした教室は、なんだか必要以上にもの悲しく感じられた。普段沢山の人がいる場所が無人になると、そう思えるのだろう。
自分の席に腰掛け、ぼんやりと窓の外を眺めていると、あかりと奈穂が話をする声が聞こえてきた。
二人は教室に入ってくると、まず宏輝の存在に気付いた。あかりが小走りに近寄ってきて、声をかける。
「ひろくん、待っててくれたんだ?」
「うん。やっぱ一緒に帰りたいなと思って」自分で言っていて、何だか恥ずかしかった。まだまだこういうのには慣れない。
ちらっと奈穂の方に目をやると、奈穂はニヤニヤと笑いながら言った。
「いやー、何だかあついねぇ」
宏輝は一気に恥ずかしくなった。一体奈穂にはどういう風に見られているのだろう。
「本当最近暑いよね。今日とか走ってて、このまま溶けるんじゃないかとか思ったもん」宏輝の心配を尻目に、あかりが言った。
多分ごまかしているとかそういう訳ではなく、本気で言っているのだろう。あかりはどこか抜けたところがあるのだ。
奈穂はそんなあかりの発言を聞いて笑っている。そしてあかりは笑っている奈穂を不思議そうな眼で見ていた。
その姿は、宏輝の知っているあかりそのものだった。幼稚園の時からほとんど変わらない姿、しっかりしているんだけど、どこか抜けているあかりが確かにそこに存在した。
人間は変わらずには生きられないけど、変わらない物もあるのかもしれない。
3人は学校を後にし、夕日で紅く染まった空に見守られながら、家路へとついた。途中に交わされる何気ない会話がとても幸せな物に感じられた。
宏輝はあかりを家まで送っていくことにした。少しでも一緒に居る時間を長くしたかったし、朝迎えに来てくれたお返しでもある。
あかりを無事に送り届けると、若干の名残惜しさを胸に宏輝は一人で自分の家に向かう。
なんだか今日は本当に色々なことが変わった気がする。そして、大きく前に進めたと思う。後は父に電話をするだけだ。それでとりあえず全てに一応の蹴りがつく気がする。
そこからは自分の努力次第だ。だけど、何だか頑張れる気がした。あかりはそれだけ大きい存在なのだろう。
もうあかりの悲しむ顔を見たくないし、ずっと笑顔を見ていたいと思うのだ。その為になら何だって出来る気がする。
そんな事を考えている内に、自宅の前に到着していた。ドアを開けて「ただいま」と言いながら家の中に入る。
奥の方から「おかえりー」という母の声が聞こえてくる。宏輝はその声の元まで歩いていった。母親はキッチンで夕飯の支度をしていた。
「今、父さんに電話しても平気かな?」
静恵は少し考える素振りを見せてから、答える。
「大丈夫だと思うよ。都合悪かったら向こうからコールバックしてくるでしょ」
「そっか。ありがと」
宏輝はそう言い残し、自分の部屋へと急いだ。出来るだけ早い内に、話をしておきたかった。蹴りをつけておきたかった。
携帯電話を手に取り、父親の番号をプッシュする。数回のコールの後、高明が電話に出る。
「もしもし。宏輝か?」
「うん」宏輝はそこまで答えると、どうやって話を切り出したらいいかが分からなくなってしまった。勢いで電話をかけたはいいが、何も考えていなかったのだ。
「お前が電話してくるなんてどうしたんだ?」
あれこれ考えても仕方ない。宏輝はそう思って、自分の気持ちを正直にぶつけることにした。
「この前のこと、謝ろうと思って……。ごめんなさい」
「そのことはもういいんだ。あれは父さんも悪かったと思う。宏輝の気持ちを考えてやれなかったからな」父親の声は、今まで聞いたことが無い声だった。優しさのような、自分を責めるような複雑な感情があるように感じられる。
「それより」父親の声色が明るくなる。「母さんから聞いたぞ。今日学校に行ったんだってな!」心底嬉しそうな声だった。
父が息子の事を心配するのはよく考えたら当然のことなのだが、自分の父親にはそれは無いと思っていた宏輝は少し驚いてしまった。
「まぁ、色々あってね」宏輝は言葉を濁した。どの言葉を選んで良いか分からなかったのか。
「そうか。何かあったとしてもこれから頑張ればいいんだ。父さんは応援してるからな。もし、何かあったら言うんだぞ」
宏輝は父親の父親らしいところを初めてみた気がした。嬉しいような、やっぱり恥ずかしいような気がした。
「適当に頑張るよ。それじゃ、また何かあったら連絡する」
「何もなくても連絡してくれてもいいからな。父さんはいつでも大丈夫だから」
宏輝は「うん」とだけ言い残し電話を切った。
何だか自分が話したのが父親では無かったかのように思えた。父親が自分のことを考えてくれているとは思ってもいなかった。
この前の事で、何かが変わったのだろうか。それとも元々考えてはいてくれたのを、宏輝が見ようとしていなかっただけなのかもしれない。
宏輝は答えのでないことを考えるのは辞めにした。良い方向に向かったならそれでいいじゃないか。と、思うようにした。
そう考えれば高田慶広との一件も悪いことばかりでは無かったように思えてくるのだ。終わりよければ全てよしという奴だ。
それから夕飯をとって風呂に入ると、宏輝はいつの間にか寝てしまっていた。突然学校に行って、一日を過ごしたので想像以上に疲れたのかもしれない。

宏輝は翌朝も6時前に目が覚めた。何時に寝てしまったかは覚えていないが、眠気も疲れも全く感じられないということは、結構寝ていたのだろう。
昨日と同じように学校へ行く用意をする。
シャワーを浴び、朝ご飯を食べ、あかりのやってくる時間を待つ。昨日は7時20分にはあかりが来ていたから、今日は15分くらいから待っていることにした。
朝の時間は足早に過ぎていく物で、あっという間に7時15分を迎えていた。
宏輝はこれも昨日と同じように「行ってきます」と口に出して言った。今日は姉はまだ寝ているらしく、母一人の「いってらっしゃい」という声が聞こえてきた。
玄関を開けて外に出ると、今日も太陽の光が眩しい。昨日よりもまた少し暑くなったように感じられる。これから梅雨になっていく気候とは思えない陽射しだ。
門を開けて道路に足を進めると、ちょうど宏輝の家へと向かってくるあかりの姿を見つけた。丁度良い時間だったようだ。
宏輝はあかりの元へと走っていく。暑さのせいか、ほんのちょっと走っただけなのに少し汗をかいてしまったし、運動不足のせいか呼吸が荒くなっている。
「おはよう」宏輝は荒くなった息を落ち着かせながら、挨拶をした。
「おはよ。朝からそんな走ってこなくても良かったのに。まだまだ時間は大丈夫なんだから」あかりが笑いながら言う。
宏輝は確かにそれはもっともな意見だとは思ったが、あかりの姿を見つけたらじっとしていられなかったのだ。
二人は並んで学校へ通う道を歩いていく。
水鳥学園駅に到着すると、待ち合わせをしている奈穂の事を待った。予定より15分程早く出発したために、早く到着してしまっているのだ。
邪魔にならないように隅っこの方によって奈穂を待つ。周りはやっぱり学生が多く、どんな風に見られているかは気になったが、それよりもあかりと一緒にいれるという事実が大きく感じられた。
奈穂はちょうど約束の時間にやってきた。二人の姿を見つけると、小走りで近づいてきた。合流した3人は学校に向けて歩き出す。
「二人で行っててくれてもよかったのに」奈穂はにやっと笑って言った。
奈穂にはもう全て気付かれてるのかもしれない。宏輝はそう思った。
「そんなこと出来る訳ないよ。それに、昔だってよく3人でいたじゃん」あかりが真剣な声で言った。
「うんうん。3人で居るのも楽しいと思うしね」あかりを援護するように宏輝も続く。
「あはは。そういってくれるのは嬉しいね」奈穂はいったんそこで言葉を切り、冗談めかして言う。「でも、付き合ってる二人の邪魔をしちゃってるみたいだからなー」
やっぱり気付かれていたか……。宏輝は心の中で呟いた。
「付き合ってる二人って誰のことさ?」奈穂相手にごまかせるとは思えないが、一応反論しておくことにした。やっぱり何だか恥ずかしいものだ。
「誰って……宏輝とあかり意外にありえないでしょー。それに、私が気付いてないと思ってるわけ?」そう言って笑ってみせる。
奈穂や祐介には敵いそうも無いな……。そう思ってちらっとあかりの方を見ると、顔を真っ赤にしている。あかりも奈穂に気付かれていたというのは何か恥ずかしいのだろう。
「まぁまぁ。別にいつかは分かっちゃうことなんだからいいじゃない。私は二人を応援しちゃうぞ!」
「応援してくれるのは嬉しいけど、奈穂だって最近三澤君と良い感じだしね。自分のこと頑張らなきゃ!」あかりが口を開いた。反撃するつもりなのだろう。宏輝もそれに乗ることにした。
「あ、それ僕も思った。なんかお似合いって感じ?」
「なっ。私と祐介が良い感じって……どこがよ?何で私が祐介なんかと……」奈穂は明らかに焦っている様子で、珍しくしどろもどろとした答えだ。
「いいじゃん!私はお似合いだと思うよー。奈穂と三澤君って息があってると思うし」
「うんうん。名コンビ!って感じだよね」宏輝とあかりは奈穂が取り乱すのを明らかに楽しんでいた。
「だから……私と祐介は!」奈穂がそこまで行ったところで、突然祐介の声が聞こえてきた。
「俺がどうしたって?」
突然の祐介の登場に奈穂は驚いた顔をしている。
「何で祐介がここに居るのよ?」取り直したように口を開いた。宏輝とあかりは二人のやりとりを見守ることにした。
「何でって……普通に登校しているだけだが?」
「でも時間がおかしいでしょ。ぎりぎりに行くのが俺のポリシーだとか言ってたじゃん!」
「ふっ。それは昔の俺の話だな。今の俺は早く行くことにしたんだよ」
「昔って……ほんの少し前に聞いたポリシーはずなんだけど……」
「事態は刻一刻と変わっているのだよ。過去の事にこだわりすぎると痛い目見るぜ」
「はぁ……」
宏輝とあかりは顔を見合わせて笑っていた。この二人はやっぱりお似合いだ。宏輝はそう思ったし、あかりも同じ事を考えたのだろう。
「ちょっと、そこの二人も笑ってないで何かいってやってよね」奈穂は宏輝とあかりの方を見る。
「だって……なんかおかしくて。やっぱり良い感じだと思うけどなぁ」あかりが冗談っぽく言った。
「だから……何でそうなるのよ!」奈穂が焦った様子で言った。
奈穂もこういうことは案外分かりやすいな。宏輝はそう思った。そして、祐介が奈穂に惚れているというのを思い出して、心の中で「おめでとう」と呟いた。
「ん?何が良い感じなんだ?」何も知らない祐介がのんきな声を出す。
「そんな事はどうでもいいから!とにかく学校行くよ!」奈穂はそう言って歩き出す。
祐介は訳が分からないといった表情のまま、着いていった。あかりも宏輝とひとしきり笑った後、小走りに追いかけた。
宏輝は一人、こういうのも良い物だな。と思っていた。友人同士での何気ない、下らないやりとり。そういう物こそが幸せなのかもしれない。一人では決して得ることの出来ない幸せだ。
宏輝が一度は失ってしまった幸せ。ひとりぼっちになってしまったと思っていたけど、今は一人ではないと確信出来る。
あかりが居るし、祐介や奈穂もいる。家族だっているし、堀仁美や松野俊だって協力してくれたんだ。これから先、何かあったとしても、周りにこれだけの人がいてくれれば乗り切れる。そんな気がした。
そして、誰かに何かがあったら出来るだけチカラになってあげたい。今回助けてもらった恩返しをしなければいけないのだ。宏輝は心に誓った。
「ちょっと宏輝、何やってるの!」奈穂の声が聞こえてくる。
「ぼーっとしてるとおいていくぞ」続いて祐介の声。
「ほら、早く早く。ひろくんも一緒に行こうよ」最後にあかりの声。
宏輝は一つ大きく息をついて、歩き出した。
宏輝の学生生活、そして宏輝の人生が本当の意味で始まったのは今なのかもしれない。
見上げた空が、今までに無いくらいに青く美しく感じられた。
―完―


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